昨日バイクで信号を待っている時、歩行者用の信号が点滅になっているのに老夫婦が渡り始めた
信号が点滅してから少し経っていた
しかもお爺さんの足取りは遅い
渡り切れないやろうと思っていたら案の定、渡り始めてすぐに歩行者用の信号は赤になり、道路の真中よりも手前の段階で車用の信号も赤に変わった
残り半分以上を待たされたことになるけど、誰もクラクションを鳴らさなかった
鳴らしてもしょうがない
でも俺は「自分の歩くスピードもわからないのか?」とイラっとした
その時、以前閃いたことを思い出した
止まっている信号とその光景を見て、待たされる機械ではなく、譲り合うことを知るための機会だということを知った。
これで少しはイラつきが納まるかと思ったけどもうひとつやった
あの人は自分が待つことより、人を待たせることを選んだ
自分勝手な行動でこっちは迷惑した
短気は損気、とはよくいったもの
帰ってからもこんな感じやから自分の性格がイヤになる
その後も「ルールよりマナー」と考えた
あのお爺さんはルールを破ったけど、思いやりを持って許してあげた方がいい、と自分に言い聞かせた
次に、立場を変えて考えてみた
俺が年を取り、信号がまだ青やから渡りたい
渡り始めたけど、足が弱っていて渡り切れなかった
そんな時、どう思うか?
たぶん、「これくらい許してぇな」と思うやろう
だから許すことにした
人の振り見て我が振り直せ
自分はしないようにして、人のことは許す
ようにしよう
と頭で思ってもすぐイラつく
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以前の気づきを思い出すために過去記事で「信号」という単語で調べた
すると19個の記事が出てきた
そんなに信号に関して書いていたのかと驚いた
その中に、今回のいらつきに使えることがいくつかあったから合わせて残すことにした
何十年と無意識に過ごしてきた習慣というのは変えづらい。
昔は「子供を見たら赤信号と思え」と教えられた。
今は高齢者の方が危ない。
理由はどうあれ注意しよ。
自分が守れていないことは、「自分も人も同じ」だと思うとイライラしない。
仮に自分は完全に守っていることであっても、人を責めずに自分のすべきを行えばいい。
周りがどんな人であっても「”自分一人くらい”はちゃんと守ろう」と思うようにすればいい。
罪を犯したことのない人間はいないのだから他人のことも許しましょう。
人を裁く権利は誰にもないということ。
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「自分くらい」の記事にも書いていた
黄色信号を慌てて渡ろうとする車をよく見る
これはおそらく「あと一人、自分くらいは大丈夫やろう」とか「黄色の間に交差点の中に入っていれば問題なし」と思っている人が多いのではないか
その人たちはたぶん、黄色になった瞬間「渡れるか」と考えていると思う
それを「止まれるか」と考えるようにすればだいたい無理なく止まれる
黄色は止まれやで
一事が万事
信号一つとっても人が現れる
自分はイライラしやすい性格だと