今、ネットでよく見るのは賛否と是非。
つまりジャッジ。
スピリチュアル系のブログでよく見るのはそれを戒める言葉。
ある人は言う。
存在しているだけで価値がある!
だから自分を裁くなかれ。
そして人を裁くなかれ。
またある人は言う。
実は 誰かを責めているその心は
自分を責めているということ。
こういう意見も。
あなたがいまジャッジ・分別している相手は、あなたが自身の信念を強めたいから登場させた信念の鏡像反転です。
例えているブログもあった。
それはまるで『陸上が一番生活し易い』と言って、無理やりイルカを陸上生活させるよう仕向ける感じです。
その事に気が付けるようになった私達は無条件の愛で”すべて”を認め、他をリスペクトしながら自分の世界を生きていく決心を固めています。
そしてこういう言葉も。
善良な地球に生まれた魂の唯一の欠点カルマは、人を裁くという想念であります。
旧約聖書に善悪の木の実を食べた。
その禁断の木の実とは、人を裁く心に他なりません。
どうか他人に寛容になりますように。
どうすれば裁かずに済むか?
その答えは「ワクワクを選ぶ」
要は「何で頭を満たすか」なんだと思う。
「慈悲の瞑想」というのがある。
それは綺麗な言葉をひたすら読むというもの。
必死に、一生懸命それらを読むということは、イライラ考える暇がなくなるということ。
「何で頭を埋めるか、何を考えて過ごすか」によって人の精神状態も変わってくるということ。
相手を批判、非難する時間を「ワクワクすることをする、考える」時間に変える。
これが自分や人を裁くことから回避し、楽しく生きる方法。
人にあれこれ言わない。
又は
人から何を言われても気にしないようにする。
その為の方法を他にも見た。
YouTube「オリラジ中田「才能の見つけ方論」驚異のプレゼン」
「才能はコンプレックスの裏側にある」
「優れるな、異なれ」
漫画「はじめの一歩」でも似た言葉が出てきた。
「臨んで行った場所だ 孤独と言うな 孤高と呼べ」
師匠も言う。
「どうどうと変人であることに誇りを持て」
バカボンのパパも言う
「これでいいのだ」
これに関して自分なりの理論ができた。
それは次回に。