一番初めのきっかけは師匠の話。
2019年4月師匠の講演会
子供のいる女性からの質問
女性
子供に対して明るい方向にいい言葉をかけてあげたり褒めて伸ばす方がいいのはわかる。
わかるけど、自分自身に自己卑下がある。
そんな状態だから自分の中に壁がある。
その壁を乗り越える方法はありますか?
師匠
日本人は完璧主義
100点じゃないと生徒(子供)に教えられないと思っている
今必要なのは正解ではない
正解は聞きたくない
「私も苦しんだし、わからないんだけど」とありのままでいい
出来事を偽ったら嘘になる
自分に正直に生きることが一番のパワーになる
極端に言うと「私だって落ち込んでるのよ」と言えること自体がすごい
それは真実を生きている
嘘、偽りで理想を言っても面白くない
いつか理想に到達してから人を教えようと思うのは無理
だから真実を語ればいい
今、私たちが知りたいのは真実
政治離れが進んだというのは誠実ではないから
政治が嘘を言っていると思うから
嘘を言っていると思うから心が離れている
今の私たちに必要なのは流行の言葉でもなければ新しい知識でもなく真実が知りたいというニーズが高まっていると思う
だから「こんな私でいいんでしょうかと思ってます」と言えばいい
それに対して「そんなこと言って何になる?」と考えるのは行為の方に目がいってる
つまり「私だって完璧じゃないし苦しんでます」ということを言ったところで、相手に何の行動変化も生まれない
すなわち君の中では自分は「doingでない」ということに違和感を感じる
相手の行為に変化を与えることができない
「私は答えを知ってます」と言えばその答えを聞いて行動に移す
でも「私にしたってどっちにしたらいいのかわからない」と言えば
相手のdoingに何の変化も与えていないという罪意識が生まれる
だけど今、世界はもっと進んでいる
なぜdoingする必要があるのか
行為が全てですか
見下されたと思えば恥じらいが生じる
相手が迷ったと思えば罪意識が生じる
人は行為しないと意味がない
これはデカルトが作った文化
いつになったら働くのか?
これはdoingに対してプレッシャーをかけたことになる
それを聞いた人が「いらないことを言った」と思えば反発心が生じるし
「確かに自分は小さい頃からダメだ」と思えば自己卑下が生じる
感情と精神と魂に歪みが生じる
全ての文明がdoingを中心に回ってきた
平和はdoingの中にはない
平和を得ようとして戦争になる
私達が目指すものはいったんdoingを離れなければいけない
日本の文化はbeingである
あることである
そこにあり続けることである
所有する必要はない
私達の自己卑下や劣等感は、その根底にbeingよりもdoingの方が価値が高いという思い込みがあるのではないか
何もしないということに対して罪意識を持っているのではないか
何もしていない時間も尊い
内臓に変調をきたすのも自分にdoingを科したから
何事かを達成するのが偉大なのではない
人生は何かに気づくだけでいい
何かを成し遂げるために生まれてきたと思うと「もうこの年になってこんなことしかできない」と思って焦るのは誰が決めたのか
その人生に価値がないと誰が言った
doingの方が価値があると誰が教えた
・・・・・・・
この話を聞いてから「何かをしなければならない」から「存在するだけで素晴らしい」と考えるようになった。
思えば、病気などで弱っている家族に対しては「そばにいてくれるだけでいい」と思うやろう。
だから存在価値とは存在するだけで価値があるんやと思うようになった。