あっ草花

草や花からも気づきを得られる、そんな境地を目指して

転換

読んだ本はほとんど感想を書いている。
しかし、映画はあまり書いていない。
今まで気にしてなかったその違いを考えて見た。

 

たしか始めは「記録を残そう」と思っていたと思う。
読んだ本と、見た映画の記録を残して、後々何かに使えればと思って始めたと思う。

 

しかし映画は面倒くさくなって、よっぽど気になったのしか書かなくなった。
でも本は面白くなくても書いている。
この原動力はたぶん「怒り」だと思う。

 

映画も本も、面白かったら「書こう」と思う。
面白くなかったら、どちらも「面倒くさい」となる。

しかし、本が面白くなかった時にはだいたい「怒り」という感情が残っている。
その「怒り」が面倒くさいを超えて書く意欲になっている。

 

怒り(記録する)>面白い(記録する)>面白くない=面倒くさい(記録しない)

 

・・・・・・・

 

同じ「面白くない」なのに、なぜ本にだけ「怒り」が残るのか?
その違いは「意味がわかったかどうか」だと思う。

 

映画は映像を見れるから、ストーリーがよほど奇想天外でない限り内容はわかる。

しかし本の場合は言葉の意味がわからないと全てがわからなくなる。

 

だから本は「面白くない」のと、「意味がわからない」の2パターンある。 

 

漢字がわからない、今使われている言葉が少ないなどは、年代もあるし、俺の読解力の無さもあるからこの場合はしょうがない。

 

しかし明らかに説明する気がないと思える本がある。
これはつまり著者のワレヨシなんだとわかった。

 

だから「面白くない」以上に「ワレヨシな著者」に対して怒りを覚えて批判を書いていた。

 

・・・・・・・

 

あまりに短い作品が多いから、青空文庫で読んだのは感想を書いていない。
今回、ついでに読んだ本を書いておこう。

 

「おすすめ50」を1位から順番に読んでいる。
1、羅生門 芥川龍之介 初版発行: 1915年
2、蟹工船 小林多喜二 初版発行: 1929年
3、ヴィヨンの妻 太宰治 初版発行: 1947年
4、銀河鉄道の夜 宮沢賢治 初版発行: 1934年
5、[雨ニモマケズ] 宮沢賢治 推定:1931年
6、走れメロス 太宰治 初版発行: 1946年
7、人間失格 太宰治 初版発行: 1948年
8、蜘蛛の糸 芥川龍之介 初版発行: 1918年
9、(途中)逆行 太宰治 発表:1935年

 


美 高村光太郎
梶井君 三好達治
ロマンチックな絵本 三岸好太郎
レオナルド・ダ・ヴィンチの手記
弘法大師景教との関係 イー・エー・ゴルドン 原本出版年:1909
短歌集 日まはり 三好達治
幸福 島崎藤村


これだけ昔の本でも意味はわかるし、面白いのもある。

 

・・・・・・・

 

整体でお世話になっている先生のブログをほぼ毎日読んでいる。
先生が毎日書くようになったのは、去年の12月から。

その頃、読者は600人台。
それが今や1500人台。

 

毎日続けてしかも読者の望むことを書き続けた結果なんやろう。

 

しかし、そんな先生でもたまに意味がわからない時がある。

誰が言ったのか?
また、言ったのか、思っただけなのか?
どこからどこまでが誰のセリフで、どこからが想像なのか?
そこら辺がわかりにくい時がちょくちょくある。

 

お客さんと一対一の時の会話は成立してたんやろう。
それを人に説明しようとするけど、頭の中だけで完了してしまった部分があり、「人のわかっていない部分」がわかっていないから意味がわからなくなる。

それでも読者は増える一方。

 

これはつまり、「できていない・不得意」を探すより「できる・得意」だけ見つめるようにしたらいい、という証拠だと思う。

 

・・・・・・・

 

俺はどうしても人の粗を探してしまう。

 

主語がない人も同様。
こちらが「何が?」と聞き返さないといけないのがわからないのか?とイラっとしてしまう。

 

「意味がわからない」ことに対してイラっとするのは、俺の心が未熟な証拠。
相手に完璧を求めている証拠。

 

相手が何を言いたいかを「理解しよう」とだけすればいい。
相手の長所だけを探せばいい。

 

不快な相手が現れるのは、理想の自分になるために必要な相手だと考える。