あっ草花

草や花からも気づきを得られる、そんな境地を目指して

神々の沈黙 本

神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡
ジュリアン・ジェインズ/著


本のカバーそで部分、
人類の意識は今からわずか3000年前に芽生えたもの、意識誕生以前の人間は右脳に囁かれる神々の声に従う<二分心>(Bicameral Mind)の持ち主で、彼らこそが世界各地の古代文明を創造した、やがて<二分心>は崩壊、人間は文字と意識を得た代わりに神々は沈黙した、と。


この部分に惹かれて図書館で借りた。


昔、人間は二分心だった。
その頃人間は神の声を聞いていた。
その頃は「聞くことが従うことだった」


つまり人間に意識が目覚めるまで、神様の言いなりに動いていたということ。
その仮説に違和感を感じたから、その仮説を証明するための途中の膨大な根拠も読んでいて面白くなかった。


第1部第1章の「意識が何でないかを示す」ここだけ哲学的で面白かった。
最後の方にある「訳者あとがき」が簡潔でわかりやすい。

感情とはそもそも何なのか 本

感情とはそもそも何なのか
乾 敏郎/著


難しいけど面白く、面白いけど難しい本。
感情が体に及ぼす機序などが詳しく書いてある。


point14
情動信号の予測信号が感情を決める重要な要因となる。


point18
注意を向けることは、感覚信号や内受容信号の精度を高めることである。


point21
うつ病の本質は「炎症」である。


point32
運動野から筋肉に伝えられるのは運動指令信号ではなく、目標となる姿勢の自己受容感覚である。


point33
脳内では、知覚と運動は区別できない。


P.49~P.50
内受容信号と外受容信号の統合および主観的感情状態の生成には、島皮質が中心的役割を果たしている。島には以下に述べる自己存在感を生み出す機能がある。

 


感情と島皮質とは関係が深く、島は自己存在感を生み出す機能がある。
だから自己を見つめる瞑想は感情のコントロールに役立つのだと思った。
瞑想でなくても「自己確立の方法」などで「自分とは」と考えることが感情のコントロールに繋がるということやろう。

する と ある-3/3

doingとbeingの話を聞いてから久しぶりにその言葉を意識したのはテレビで見たから。


NHK こころの時代~宗教・人生~
それでも生きる 旧約聖書・コヘレトの言葉 (5)「“今”をみつめる」


この放送日は2月21日(日)、再放送は2月27日(土)
どっちで見たか忘れた。


この中で批評家・随筆家の若松英輔さんがゲド戦記のことを紹介していた。
ゲド戦記の中に「ある人生とする人生」という言葉が出てくるそうな。


・・・・・・・


テレビを見た数日後、ゲド戦記に出てくる言葉を調べた。
すると映画「ゲド戦記」の監督、宮崎 吾朗のブログにそのことが書いてあった。

 

www.ghibli.jp「する人生」とは、
目標を持ってそれを成し遂げようとする人生です。
その動機は、富や名声を得たいというものから
人を感動させたいというものまでさまざまです。


一方「ある人生」とは、自分のためであれ人のためであれ、
何か野望を持って生きるのではなく、
日々の営みに満ち足りて生きていく人生です。


・・・・・・・


テレビを見てから師匠の話を思い出し、それから考えていた。
生きるとは、自分らしさとは、仕事をする意味とは。
こういう学生が考えそうなことには「自己確立の方法」は使えないなぁ、なんてことを考えていたからか急に「武士道とは死ぬこととみつけたり」という言葉を思い出した。


この言葉ははじめ漫画「YAIBA」で知った。
YAIBA」は「名探偵コナン」の作者、青山 剛昌の作品。


漫画「YAIBA」との出会いは自分には珍しく衝動買いやった。
本屋さんで単行本の表紙の絵に一目ぼれしてその場で買ってしまった。
今までそんなことしたことなかったし、しかも買ったのは2巻と4巻。


確かその時は10巻ちょっと出てたと思うけど、1巻と3巻が売ってなかった。
それまでの自分なら(今でも)中身を知らずに買うことはないし、ましてや1巻がないなら尚のこと買わない。
本当に衝動買いやった。


そんな大好きな作品の言葉を急に思い出したからネットで調べてみた。
すると言葉の元ネタであろう本が「葉隠」ということがわかった。
元は「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」やった。


葉隠』(はがくれ)は、江戸時代中期(1716年ごろ)に書かれた書物。肥前国佐賀鍋島藩士・山本常朝が武士としての心得を口述し、それを同藩士田代陣基(つらもと)が筆録しまとめた。
Wikipediaより


葉隠が本になった経緯が面白かった。


口述者、山本常朝が仕えていた藩主が亡くなった。
あとを追って切腹したかったけど禁じられていたから出家した。
その後会った田代陣基が山本常朝の言葉を残さなければと書き残した。
その後出版された。


これを見て思い出したのがお釈迦様とキリスト。
確か二人の教えも弟子たちが書き残したんやったと思う。
葉隠はそれに似た状況。


それと、
武士として生まれ育ったのに武士として死ぬことが許されなかった人が何を考えたのかが気になった。
整体師として生きたいのに世間から必要とされない今の自分に必要な考え方が載っているのでは?
他の人(田代陣基)が「残さなければ」と思った内容はどんな物か?
これらが気になり葉隠を読むことにした。


・・・・・・・


この2月~3月は「するとある」つまり自分の生き方について考えた1ヶ月やった。
その流れで葉隠を読んで、山本常朝の一番言いたいであろうこと「主のために死ぬ覚悟が必要」という考えは自分には受け入れられないことがわかった。
同時に自分の心の奥が明確になった。


生きる意味はわからなくてもいい。
目標がなくてもいい。
仕事ができなくてもいい。
生きる価値が無い人間なんていない。
存在しているだけで意味も価値もある。


自分は目標もなく必死で稼ぐ気もないけど生きている。
自分にできることをして生きていく。

する と ある-2/3

2月はお客さんが少なかった。
だから中旬くらいからやったかな、バイトしようかと考えていた。
その頃に思い出していたのが日月神示と師匠の別の言葉。


日月神示には「逃げ道を作るな」ということが書いてある。
逃げ道とは、あれがダメならこれにしようということやから、整体がダメならバイトで食い繋ごうとすることを戒めているということになる。
それくらいの意気込みで本職に取り組みなさいということだと思う。


師匠は「万が一になったらしようと思っていたことがあるなら今が万が一ですよ」と言っていた。
俺は店を閉める前から、どうにかなったらバイトでもすれば餓死することはないと思っていた。
だから今はもう仕事を選ばずなんでもしないといけないのかなとも思っていた。


そしてまた日月神示
「何事があっても不足を申すなよ」


これで考えると、今は食べるには困らない。
それ以上を求めることは不足を考えることになる。
だから今あるものに感謝して生活すればいいかと考えた。


そしてまた師匠の言葉。
自分が自分らしさを失ってワクにはまろうとした時に病気になり貧困になり失敗する。


こういうことを考えていた少し後、朝の9時頃お客さんから電話があり「午前中のうちにお願いしたい」ということですぐ出張に行ったことがあった。
あの時、もし稼ぐために他のアルバイトをしていたら聞けなかった依頼だったかも知れない。


人数が少なくても、お客さんの「助けて」という声にすぐに答えられるようにしておく。
そのためには他のバイトはしない方がいい。
「バイトは夕方や夜に行けば、昼間は自由に動ける」という考えも浮かんだ。
それくらい努力しないからダメなのかも、とも思った。
そしてその考えが一般常識という枠かなとも思った。


バイトをせずに今のままというのが自分らしいと思えた時、心が軽くなった。


後で考えるとこれはする人生ではなく、ある人生を選んだという一つの出来事やった。


・・・・・・・


ちょうど同じ頃、香港の人とメッセージをやり取りするようになった。
少しすると女性は俺にFXをするように勧めてきた。
断ると「why?」と返ってきた。
俺はその理由を考えてこう返した。


I don't work to earn.
I work for sick people.


私は稼ぐために働かない
病気の人のために働く


これも後で考えると、する人生よりある人生を選んだということだと思った。


・・・・・・・


そしてつい先日、親友から連絡があった。
生存確認と仕事をしないかという誘い。


彼は、同じ会社内やけど現場監督をやめて営業職に変わると言う。
色々あったのと将来を考えてのことらしい。


それに合わせて工事現場を養生する人が必要とのこと。
始めは「手伝って」というから補助だと思ってすぐOKした。
しかし聞くうちに「慣れたら一人で」「荷物も運んで欲しい」となってきた。


月に10回ほどで丸一日はかからないし、整体の予約を優先していい。
服装も気にしないでいいし、バイクで現場に行ける。
しかもそこそこの額を貰える。
いいこと尽くめのように思いながらこの時はこれで電話を切った。


けど、その後考えれば考えるほど不安が出てきた。
現場の養生ということはしゃがみ込んでの作業も多いやろう。
そう考えると、去年7月に閉店した時の片付けと、8月の家の掃除と準備で体調が崩れたことを思い出した。


彼の誘いに乗ってやってみたはいいけど、すぐにやっぱり無理ってのも悪いなぁ。
それと、


リフォーム現場の養生は工事内容によってはかなり気を使う。
以前監督だった時の養生に関するイヤな思い出が出てきた。
それと去年の自分の家のリフォームでも養生に関してかなりイヤな思いをした。
彼の仕事もリフォームやから、養生とはいえ下手すれば責任問題になることもある。
そう考えると体調面と心理面、両方の不安が出てきた。


そこで改めて考えてみた。
すると、
友達の手助けとして補助ならやろう。
俺の収入を心配して仕事を紹介してくれたのなら断ろう。
この結論が出たら心がスッキリした。


この結論が出た時も、俺は仕事をするのがイヤなんじゃなくて、何のためにするのかを大切にしているということが明確になった。

する と ある-1/3

一番初めのきっかけは師匠の話。


2019年4月師匠の講演会
子供のいる女性からの質問


女性
子供に対して明るい方向にいい言葉をかけてあげたり褒めて伸ばす方がいいのはわかる。
わかるけど、自分自身に自己卑下がある。
そんな状態だから自分の中に壁がある。
その壁を乗り越える方法はありますか?


師匠
日本人は完璧主義
100点じゃないと生徒(子供)に教えられないと思っている
今必要なのは正解ではない
正解は聞きたくない
「私も苦しんだし、わからないんだけど」とありのままでいい
出来事を偽ったら嘘になる
自分に正直に生きることが一番のパワーになる


極端に言うと「私だって落ち込んでるのよ」と言えること自体がすごい
それは真実を生きている
嘘、偽りで理想を言っても面白くない


いつか理想に到達してから人を教えようと思うのは無理
だから真実を語ればいい
今、私たちが知りたいのは真実


政治離れが進んだというのは誠実ではないから
政治が嘘を言っていると思うから
嘘を言っていると思うから心が離れている


今の私たちに必要なのは流行の言葉でもなければ新しい知識でもなく真実が知りたいというニーズが高まっていると思う
だから「こんな私でいいんでしょうかと思ってます」と言えばいい


それに対して「そんなこと言って何になる?」と考えるのは行為の方に目がいってる
つまり「私だって完璧じゃないし苦しんでます」ということを言ったところで、相手に何の行動変化も生まれない
すなわち君の中では自分は「doingでない」ということに違和感を感じる
相手の行為に変化を与えることができない


「私は答えを知ってます」と言えばその答えを聞いて行動に移す
でも「私にしたってどっちにしたらいいのかわからない」と言えば
相手のdoingに何の変化も与えていないという罪意識が生まれる


だけど今、世界はもっと進んでいる
なぜdoingする必要があるのか
行為が全てですか


見下されたと思えば恥じらいが生じる
相手が迷ったと思えば罪意識が生じる


人は行為しないと意味がない
これはデカルトが作った文化


いつになったら働くのか?
これはdoingに対してプレッシャーをかけたことになる


それを聞いた人が「いらないことを言った」と思えば反発心が生じるし
「確かに自分は小さい頃からダメだ」と思えば自己卑下が生じる
感情と精神と魂に歪みが生じる
全ての文明がdoingを中心に回ってきた


平和はdoingの中にはない
平和を得ようとして戦争になる
私達が目指すものはいったんdoingを離れなければいけない


日本の文化はbeingである
あることである
そこにあり続けることである
所有する必要はない


私達の自己卑下や劣等感は、その根底にbeingよりもdoingの方が価値が高いという思い込みがあるのではないか
何もしないということに対して罪意識を持っているのではないか


何もしていない時間も尊い


内臓に変調をきたすのも自分にdoingを科したから


何事かを達成するのが偉大なのではない
人生は何かに気づくだけでいい
何かを成し遂げるために生まれてきたと思うと「もうこの年になってこんなことしかできない」と思って焦るのは誰が決めたのか
その人生に価値がないと誰が言った
doingの方が価値があると誰が教えた


・・・・・・・


この話を聞いてから「何かをしなければならない」から「存在するだけで素晴らしい」と考えるようになった。


思えば、病気などで弱っている家族に対しては「そばにいてくれるだけでいい」と思うやろう。
だから存在価値とは存在するだけで価値があるんやと思うようになった。

新校訂 全訳注 葉隠 (上) 本

新校訂 全訳注 葉隠 (上)
菅野 覚明、栗原 剛、木澤 景、菅原 令子/訳・注・校訂


葉隠をネットの図書館で探すと色々あった。
この本は上中下あって「しっかりしてそう」と思い全部借りることにした。


(上)だけ開架にあるけど後は自動書庫。
つまり図書館員さんに出してもらう必要があった。


出してもらってビックリ、本が分厚い。
(上)644ページ
(中)862ページ
(下)739ページ


読むのが大変と思ったら、原文と現代語訳と注意書きの3本立てやった。
しかも注意書きがかなりしっかりしてるから現代語訳だけ読もうと思うと1/3くらいの量になる。


これなら読めると思って読み始めると面白かった。
いいことも多く書かれていた。


しかし、途中で飽きてきた。
そしてこれが読むのをやめる最後のきっかけになった。


現代語訳
武士道とは「死に狂い」である。
<中略>
武士道ではとにかく自ら死地に突入することである。
そうするうちに忠や孝は自然と含まれてくるはずだ。


この本は山本常朝の言葉を田代陣基が筆録したもの。
山本さんが日々思ったことがとてもいいことなので田代さんが書き残した。
つまり今でいうブログみたいな感じで、書いてあることは山本さんの価値観、山本さんが思うよかれであり、べき論。


いい面もあるけど真理とまでは言えない。
ちょくちょく重く感じたり違うと感じたりする部分が出てきて飽きてきた。
そんな時に190ページ目で「またか」と思ってやめることにした。


特に違和感を感じるのは、藩主のために死ぬ覚悟が必要という部分。
他にも、何をするにも必死の覚悟が必要というのが随所に出てくる。
だから赤塚不二夫葉隠の副題が「死ぬ気の意思決定」


・・・・・・・


自己犠牲で人を守ることには賛成やけど、その守る人が「権力が上だから」という理由には納得できない。


自分は一生懸命やった。
その結果、体と心を壊した。
だから「何事もほどほどがいい」と中道を求めている。


葉隠にも中道のことは書いてあった。
でも、武邊に関しては中道はよくなく他のことも初めから中道を求めるのはよくないとあった。


それとこれもあった。


・・・・・・・


この本で探すのは大変やから赤塚不二夫の「葉隠」から


P.83
名利薄き士は多分えせものになって人をののしり、高慢にして益にたたず、名利深き者には劣るなり。今日の用にたたざるなり。



名誉と富に執着ない人物は、おおかたつまらぬ人物になって、人をののしり、高慢で役に立たず
ついには名誉と富に執着する人間より劣ってしまう。
今の役に立たないものだ。


成功する人は必死で頑張った人ってのはわかる。
欲のない人は努力をしないから能力が上がりにくいってのもわかる。
でも欲のない人間が役に立たないからよくない、なんてことは俺は思わない。


今は時代が違う。
刀による命の駆け引きはないんやから最初から中道を目指して何が悪い。
体や心を壊す前に中道を目指した方がいいと思っている。


葉隠の一番言いたいことが引っ掛かり、違和感が増していって途中でやめた。


・・・・・・・


読んだメリットはあった。


人の「べき論」を読むくらいなら自分の「べき論」を書いた方が楽しい。


それに、江戸時代の人の「べき論」が現代にも通用するということは、現代の「べき論」も後世の役に立つかも知れない。
つまり、俺が「書いてもしょうがない」「愚痴になる」と思って書くのを控えている「俺のべき論」がいつか人の役に立つかも知れない。


そう思うと「思ったことは何でも書いたらいいか」と思えるようになった。

 
本はあと2冊借りている。
それらを読んで時間があれば残りを読もう。

葉隠 死ぬ気の意思決定 本

葉隠 死ぬ気の意思決定
著者:赤塚不二夫


機会があって葉隠を読もうと思った。
ネットで図書館を検索すると何冊かあった。
その中に赤塚不二夫の名前を見つけて面白そうやったから一緒に借りた。


ほとんど漫画で、最後は文章でも書いている。
わかりやすく、たまにギャグもあって面白く読めた。


その後、別の葉隠を読むと、この本はほんの一部だということがわかった。
ただ「葉隠とはどんなものか?」という雰囲気を掴むにはとてもいい本。
葉隠入門といったところか。