あっ草花

草や花からも気づきを得られる、そんな境地を目指して

数学する人生 本

数学する人生
岡 潔  (著)、森田 真生 (編集)

一 最終講義
情緒の例えなどが書かれていた。

二 学んだ日々
海外の生活について。

三 情緒とはなにか
情緒を育む方法など。

四 数学と人生
奥様が岡潔について書かれていた。



全体の心を「情」、個々の心を「情緒」

情あっての知や意です。「わかる」というのも、普通は「知的にわかる」という意味ですが、その基礎には、「情的にわかる」ということがあるのです。

見るということをしないように。見るというのをやったら意識を通しますし、ただちに死へと逆戻りです。
右の内耳に関心を集めると、情緒がわかるのです。

今の常識は狂っています。その常識通りに世界が動いているのだから、人類の現状はまるで間違えた軌道を走る列車のようなものです。このままでは大変なことになる。これを正しい軌道へ乗せなければなりません。

欧米の学問、思想は、物質が元で心が末。この流れを、逆向きに変えないことにはしようがない。

「価値判断」が古人と明治以降の私たちとで百八十度違うのである。
一、二例をあげると、古人のものは、「四季それぞれよい」「時雨のよさがよくわかる」である。
これに対応する私たちのものは、「夏は愉快だが冬は陰惨である」「青い空は美しい」である。
刺激をだんだん強くしてゆかなければ、同じ印象を受けない。
こんなふうである。
これに対し古人の価値判断は、それぞれみなよい。
<中略>
この古人的評価の対象となり得るものが情緒なのである。

情緒がよくわかるようになると、自分の今の心の色どりがすぐにわかるから、いやな心はすぐ除き捨てるようになる。

それでは、情緒を見る見方というのは、どういうことでしょうか。
たとえば、すみれの花を見るとき、あれはすみれの花だと見るのは理性的、知的な見方です。
むらさき色だと見るのは、理性の世界での感覚的な見方です。
そして、それはじっさいにあると見るのは実在感として見る見方です。
これらに対して、すみれの花はいいなあと見るのが情緒です。


結 新しい時代の読者に宛てて
森田 真生

そもそも彼は「情緒」を主題としながら、それを定義しようとしない。
エッセイ「いのち」の中で彼は、「情緒というのはもともと定義のないことばなのです」と開き直っているくらいだ。



本の中で岡潔は、数学はわからないから面白い、というようなことを書いていた。

他のことは、少しするとすぐわかった。
でも、数学はやってもわからないから続けたのだと。


俺の整体が続く理由も似てる。
他のことはすぐ飽きた。
将来を考え不安になった。

でも整体という仕事はやってもやっても満足できない。
いつまで経っても上があり、いつも「どうしたらええねん」と思っている。

だから先の言葉を見て、「悩みながらでも続けたらいい」という気持ちになれた。


本に三昧という言葉があった。
岡さんにピッタリの言葉だと思った。