あっ草花

草や花からも気づきを得られる、そんな境地を目指して

ひふみ神示の一部抜粋

以前ひふみ神示を読んだ時、その時に「いい」と思った部分をピックアップしておいた。
この後の記事でさらにここから絞って記事に使うことにしたから、先に全体を残しておこう。


我張りてやる気ならやりて見よれ、九分九分九厘で鼻ポキンぞ、


金がたまらねば深く省みよ。


金が好きなら金を拝んでもよいのぢゃ。区別と順序さへ心得て居れば何様を拝んでもよいぞ。金を拝めば金が流れてくるぞ。
金を拝み得ぬイコヂさが そなたを乏しくしたのぢゃ。


赤貧は自慢にならん。無神論も自慢にならん。清貧はまけおしみ、清富になれよと申してあろうが。


我出すから苦しんでいるのだ、神が苦しめているのでないぞ、人民 自分で苦しんでいるのだと申してあろうがな。
我の考えでは何事も一切成就せんのだぞ、高いところから水流れるようにと申して知らせてあろうがな。


どんなことあっても不足申すでないぞ、不足悪だぞ


自分いやしめるでないぞ、皆々神々様ざぞ。もの頂く時は拍手打ちて頂けよ、神への感謝ばかりでないぞ、
拍手は弥栄ざぞ、祓ざぞ、清めぞと申してあらうが、清め清めて祓ひてから頂くのざぞ


長い目で見てやれ、おしみなく与へるうちに人民 元の姿あらはれるぞ。


みたまみがきとは善いと感じたこと直ちに行ふことぞ


下腹からの怒は怒れ。胸からの怒は怒るなよ


人ほめよ。人ほめることは己ほめることぞ。


しくじりも人間にはあるぞ。しくじったらやり直せよ。しくじりは火と水の違ひぞ。このことよく心得てなされよ。
しくじり、しくじりでなくなるぞ。何も思案投首 一番罪深い。皆それぞれに喜び与へられてゐるでないか。


かへりみる、はぢる、くゆる、おそる、さとる、の五つのはたらきを正しく発揮して、
みそぎ祓を実践せねばならんのであるぞ。
省みると道見出し、悟ると道が判り、改むると道進む。苦しむばかりが能ではない。


信仰を得て霊的に病気を治すのは、一瞬には治らんぞ。奇跡的に治るとみるのは間違ひ。迷信ぞ。
時間もいり手数もいる。物も金もいる。大き努力いるのであるぞ。取違ひ多いのう。


若し行き詰ったら省みよ。行き詰った時は大きくひらける時ぢゃ。ぢゃと申して ひとこころで急ぐでないぞ。


総てを殺さずに皆が栄える道があるでないか。何故に神示を読まぬのぢゃ。


低うなるから流れて来るのぢゃ。高うなって天狗ではならん道理。頭下げると流れ来るぞ。
自分の小さいこと知れる者は、神の国に近づいたのであるぞ。


人に言うてもらっての改心では役に立たんぞ、我と心から改心致されよ、我でやろうと思ってもやれないのだぞ、
それでも我でやって鼻ポキンポキンか、そうならねば人民得心できんから、やりたい者はやって見るのもよいぞ、
やって見て得心改心致されよ、今度は鬼でも蛇じゃでも改心さすのであるぞ。


信仰の人と、無信仰の人と、愈々立分けの時ぢゃぞ


道は易し、楽し。楽しないのは道ではないぞ、奉仕ではないぞ。世界に呼びかける前に日本に呼びかけよ。
目醒まさねばならんのぢゃ。それが順序と申すもの。


苦労し、手をかけ、金かけるほどよいもの出来るぞ。信念越えて自分より上のものにまかせきったのが理解であるぞ。
信念だけでは何事も出来ん。確信は理解からぞ。


現在を足場として境遇を美化し、善化してすすめ。其処にこそ神の光、よろこび現れるのぢゃ。
逃げ道つくれば迷ひの道に入るぞ。楽に得たもの、楽に失う。


口から出るもの、入るもの気つけよ。


食物は科学的栄養のみに囚われてはならん。霊の栄養大切。自分と自分と和合せよと申してあるが、
肉体の自分と魂の自分との和合出来たら、も一段奥の魂と和合せよ。更に、又奥の自分と和合せよ。


苦しむと曲るぞ、楽しむと伸びるぞ、此の方 苦しむこと嫌ひぢゃ、苦を楽しみて下されよ。
すべて世の中の出来ごとはそれ相当に意義あるのであるぞ。意義ないものは存在ゆるされん。


悪の世が廻りて来た時には、悪の御用する身魂をつくりておかねば、善では動きとれんのざぞ、
悪も元ただせば善であるぞ、その働きの御用が悪であるぞ、御苦労の御役であるから、悪憎むでないぞ、
憎むと善でなくなるぞ、天地にごりて来るぞ、世界一つに成った時は憎むこと先づさらりと捨てねばならんのぞ、


悪殺すてふ其のことが、悪そのものと知らざるや、神の心は弥栄ぞ、本来 悪も善もなし、只み光の栄ゆのみ
今度は悪をのうにするのぢゃ、のうにするは善で抱き参らすことぢゃ、なくすることでないぞ、亡ぼすことでないぞ
悪あればこそ向上するのであるぞ。
悪を悪と見るのが悪。
外道はないのであるから、外道 抱き参らせて、正道に引き入れて下されよ。
外道の悪 殺すでないぞ。抱き参らすから消えるのであるぞ。
道徳を向上させよ。倫理を新しくせよ。法律を少なくせよ。何れも一段づつ上げねばならん。


悪の霊はみぞおちに止まりかちぞ。霊の形は肉体の形、肉体は霊の形に従ふもの。
このこと判れば、この世のこと、この世とあの世の関係がはっきりするぞ。足には足袋、手には手袋。


外にあるもの内にあるぞ。
世界がそなたにうつってゐるのぞ。世界見て己の心早う改心致されよ。


キが到ればモノが到る。モノを求める前にキを求めよ。めあてなしに歩いたとて、くたびれもうけばかり。
為すとはイノること。人の為にイノるは、己の為にイノること。今の人民、イノり足らん。


我では行かん。学や金ではゆかん。マコトの智一つと申してあらう。
信念と真念は違ふぞ。信念は自分のもの。信念超えて真念あるぞ。任せきったのが真念ぞ。


苦と楽 共に見てよと申してあらう。偶然の真理、早う悟れよ。


嬉し嬉しで運命を迎へる気、結構ぞ。
人間は、色とりどりそれぞれの考へ方を自由に与へてあるのざから、無理に引張ったり、教へたりするでないぞ。
今あるもの、今生きてゐるものは、たとへ極悪ざと見えても、それは許されてゐるのであるから、あるのであるぞ。
他を排すでないぞ。


禁慾は神の御旨でないぞ。慾を浄化して、生めよ。産めよ。今の人民、慾の聖化を忘れて御座るぞ。
慾は無限に拡がり、次々に新しきもの生み出すぞ。慾を導けよ。


神の理(ミチ)を進むものは嫌でも金がたまるのぢゃ。金がたまらねば深く省みよ。
理に外れて御座るぞ。人は罪の子でない、喜びの子ぞ。
正しき喜びを先づ見極めよ。見きわめてひたすらに進めばよいのぢゃ。


美の門から神を知るのが、誰にでも判る一番の道であるぞ。芸術から神の道に入るのは誰にでも出来る。


自分にふりかかって来る一切のものは最善のものと思へ。如何なる悪いことも それは最善のものであるぞ。
この道理よくわきまへて下されよ。真の神を理解すれば、一切の幸福 得られるのぢゃ。


あなたまかせ、よい妻と申してあろうが。神まかせがよい人民であるぞ。
この神とみとめたら理解して、マカセ切れよ。太元の神さまにホレ参らせよ。


何か迫り来るのは、何か迫り来るものが自分の中にあるからぞ。
内にあるから外から迫るのぢゃ。自分で呼びよせているのぢゃ。
苦しみの神、因果の神 呼んでおいて、不足申している者 多いのう。


愛は養はねばならん。夫婦はいのちがけで、お互にきづき合はねばならんぞ。夫婦愛はあるのではない。
築き上げねばならんぞ。生み出すのぢゃ。つくり出すのぢゃ。そこに尊さあるぞ。喜びあるぞ。
左には宗教、右には芸術。


一椀をとって先づ神に供へよ。親にささげよ。子にささげよ。腹八分の二分はささげよ。
腹十分食べてはこぼれる。運はつまってひらけん。


人民に与へられてゐるものは食物だけぢゃ。日のめぐみ、月のめぐみ、地のめぐみだけぢゃぞ。
その食物節してこそ、ささげてこそ、運ひらけるのぢゃ。病治るのぢゃ。人民ひぼしにはならん。
心配無用。食物、今の半分で足りると申してあらうが。


ツキモノがたらふく食べてゐることに気づかんのか。食物節すればツキモノ改心するぞ。
先づ百日をめあてに、百日過ぎたら一年を、三年つづけたら開運間違ひなし。


慾を、小さい自分ばかりの慾をすてなされ。そしてまことの大深慾になりなされよ。


実行せねばならん。地上人は物としての行動をしなければならんぞ。口と心と行と三つ揃はねばと申してあること、忘れたか。


考えてゐては何も成就せんぞ。神界と交流し、神界に生き、神界と共に弥栄すればよいのぢゃ。


そなたが歩むのぢゃ。道は自分で歩まねばならんぞ。他人におんぶしたり、他人が歩かしてくれるのではないぞ。


何ごとも清めて下されよ。清めるとは和すことであるぞ。同じもの同士では和ではない。
違ったものが和すことによって新しきものを生むのであるぞ。


われにどんな力があったとて、我を出してはならんぞ。我を出すと力なくなるぞ。
我を、大き我に昇華させよ。大我にとけ入らねばならん。
大我にとけ入ったとて、小我がなくなるのではないぞ。人おろがめよ。物おろがめよ。
おろがむと自分の喜びとなり、拝まれたものも喜びとなるぞ。うれしうれしとはそのことぞ。


そなたは他にものを与えることに心せねばならんぞ。与えることは頂くことになるのであるから、
与えさしてもらう感謝の心がなければならんぞ。


仕事は神が与えたり人が与えてくれるのでないぞ。自分自身が仕事にならねばならん。
この道理さへ判れば、失業はないぞ。自分が仕事ぢゃからのう。


心で描いて、心で先づつくり出してから行為することも、その順序も判るであろうがな。
心のうごきが先で、肉体がその後でうごくことも判って居ろうがな。
心の世界にないものは物質の世界にない道理も判って居ろうがな。何故に迷ふのぢゃ。
霊界が主で現界が従であること、判って下されよ。